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「観察」と「経験」との間には大きな違いがあります。 観察には、観察者はまったく存在しません。 観察することだけがあり、 観察されたものから分離した“ひと”は存在しません。 観察は省察的な調査とはまったく異なったものです。 省察には常に、省察するひとと省察される内容とがあります。 そのなかには常に調べている実体が存在します。 「観察」のなかには絶え間ない学びの過程だけがあります。 ―絶え間ない蓄積の過程ではなしに。 その違いをあなたが見ることを望みます。 この学びの過程においては、 それに基づいて後で思考したり、行動したりすることのできる、 学んだことの蓄積は一切ありません。 それは観察者なしに見ることなのです。 そして「経験」の問題があります。 なぜ私たちは経験を望むのでしょうか。 今までにそれを考えて見たことがありますか。 私たちは常に、より深い、より広い経験を望んでいます―神秘的で、深遠で、超越的な。 それはなぜなのでしょう。 それは私の生があまりにも惨めで、あまりにも卑小で、 取るに足りないものだからではないでしょうか。 ひとは、そのつまらないもの全てを忘れ、まったく違う次元にいきたいのです。 しかし、悩み、恐れ、慢性的な問題に占められている取るに足りない精神が、 どうしてそれ自身の投影と活動を超えた何かを知ることができるでしょう。 より偉大な経験を求めるこの要求は、現にあるものからの心理的逃避であるに過ぎません。 けれども生のなかの最も神秘的なことに出会えるのは、その現実を通してだけなのです。 経験には認知の過程が含まれています。 何かを認知するとき、それはあなたが既にそれを知っていることを意味します。 一般に経験は過去から来ており、そのなかに新しいものは何もありません。 それゆえ、「観察」と「経験」との間には違いがあるのです。 「気づき」によって、私は現にそうである私のままに、私自身の全体を見始めます。 表面的、潜在的を問わず、瞬時瞬時の思考、感情、反応のすべてに注意深いので、 心は絶えずそれ自身の活動の裏にある真意を見出していきます。 それが自己を知ることです。 であるのに反して、もし私の理解が蓄積的であるなら、 そのとき、その蓄積は更なる理解を妨げる条件づけ―知識という障害となるのです。 では心は、蓄積することなしにそれ自身を観察することができるでしょうか。 学ぶことは、それ自体が行為です。 一般的には、まず学び、そして学んだことに沿って行為がなされます。 ですから、過去と行為の間には分離があります。 それゆえ「あるがままのもの」と「あるべきもの」との間、 あるいは「いま現にあるもの」と「あったもの」との間に葛藤があります。 しかし、私たちは「学ぶという運動そのもののなかに行為が存在しうる」と言っているのです。 つまり、学ぶことが行為なのです。 学んだ後で行為をするのではありません。 これを理解することが極めて重要です。 なぜかというと、 学び、そしてその蓄積から行為することが、まさに「私」、自己、エゴの性質だからです。 「私」こそが過去の本質であり、 その過去が現在に影響を与え、また未来にも影響を及ぼすのです。 ここにあるのは絶え間のない分離の過程です。 学びのなかには絶え間のない運動があります。 そこには「私」へと結晶する蓄積がありません。 技術的な領域においては知識の蓄積が必要です。 知識がなければ、大西洋を飛行することも車を運転することも不可能となります。 それはもちろんです。そういった知識は絶対に必要です。 しかし、いま私たちが話しているのは、 「私」の活動の場である心理的な領域についてです。 私は地位や名声などを得るために技術的な知識を利用します。 私は働くために知識を使いますが、 仕事の中で「私」が口を差し挟むと道を踏み外すことになるのです。 と云うのも、「私」は技術的な知識を使って地位を求めるからです。 ですから「私」は科学的な領域の知識に純粋な関心を持っているのではありません。 他の何かを達成するためにその知識を利用するのです。 それはちょうど、有名になる手段としてピアノを利用している音楽家のようなものです。 彼に関心があるのは名声であって、音楽それ自体ではないのです。 私たちは技術的な知識をなくすことについて話し合っているのではありません。 それどころか技術的な知識は多ければ多いほど、 ますますより良い生活環境を実現してゆくことでしょう。 しかし「私」がそれを利用した途端、道を踏み外すことになるのです。 人はあらゆるものを一掃しなければなりません。 過去を、経験を、知識を、多くの解釈、結論を― ついにいかなる中心もなくなるまで。 この知識―それは本質的に彼の条件づけなのですが― この知識を保持している実体が「観察者」です。 この根本的事実を自分自身で見出さなければなりません。 知識への耽溺・執着は他のあらゆる耽溺と変わらない。 それは虚無の、孤独の、何でもない存在であることの恐怖からの逃避を許す。 蓄積の動機が理解されて、初めて知識から自由になりうる。 それは「安心していたい」「確固としていたい」という切望に他ならない。 質問者:あなたは、あらゆる条件づけ、あらゆる現象、 あらゆる行為と感情に気づくことを提唱しておられます。 しかし、私たちがあなたの言っていることを聞いてしまうや否や、 それはすべて知識に変化してしまう、という明白な事実について あなたは何か言うことができるでしょうか。 そこから私たちは行動し、起こり続けるすべてに気づこうとします。 私が学んでしまったもの、それは知識になってしまいますが、 それと現在のなかでの私の行動との間に何か葛藤があるのでしょうか。 クリシュナムルティ:そのとおりです。私たちはそれを見出そうとしています。 私たちは気づきのことを話してきました。 私が学んできたことのすべては知識として蓄えられます。 そして実際には、その知識でもって私たちは行為します。 行為と、蓄積された理解、蓄積された知識との間に葛藤があるのです。 そのことに立ち入る前に、 私たちは学ぶこととは何であるかを見出さなければなりません。 私にとって「学ぶ」ということは生のなかでもっとも重要なことの一つです。 ひとはこのように朝起きて、空や木、川や花の美しさを見ます。 ひとはそのすべてを見ますが、 新鮮さを持ってではなく、熱意を持ってでもなく、激しくでも情熱を持ってでもなく、 判断し、評価して、それを昨日起こった何かと比べながら見るのです。 ひとがそうするとき、学びのすべては止んでしまっています。 そこで「学ぶということは実際何なのだろうか。 学んでおり、蓄積していない心の状態とは何なのだろうか」と自分自身に尋ねます。 あなたはむしろ、落ちつかない心を持ってここに来て座り、話し手に耳を傾けます。 あなたが耳を傾ける前に、 耳を傾けようとしている心のなかで実際に何が起こっているのかを 自分自身で見出さなければなりません。 あなたが落ちつかない心で、おしゃべりでいっぱいな状態で、耳を傾けようとしているなら、 そのとき、あなたは学ぶための空間を持っていません。 おはようのあいさつなどすべてテントの外で言いなさい。 「ご機嫌いかがですか」「今朝はいい天気ですね」「すてきなドレスですね」 そのくだらないものすべてを外に置いてきなさい。 入ってきて、強制された静かさでも、「私は静かにしなければならない」と言いながらでもなく、 非常に静かに座りなさい。 あなたが自然にそれをするなら、あなたの心は並外れて沈黙し、静かになります。 あなたは学んでいる心の状態を見出します。 そのとき、その耳を傾けていることそのものが学んでいることなのです。 私たちが毎朝、 ぼんやりした沈黙ではなく、その油断のない沈黙を持ってここに来て座ることができるなら、 そのとき多分、色々なものごとについての私たちの対話は並外れたできごとなのです。 ひとがこの完全な静けさと沈黙のなかから耳を傾けることができるなら、 そのとき沈黙の性質を見出し始めます。 その沈黙、静かな心のその質は、 どんなものもそれに注ぎ入れさせていないという否定的な意味で、肯定的な活動なのです。 あなた方が私に尋ねたい質問を持っているのは知っていますが、 あなたが立ち上がって質問するや否や、あなたの心は静かではなく、 私たちがいま話していることをあなたはしていないのです。 今朝、ここに来て、あなたはこれらの木が陽のひかりを浴び、 青い空を背景に、非常に静かであるのを見て来たに違いありません。 一体、あなたは見たでしょうか。 そして、あなたが本当に見たなら、それらをどんな風に見たでしょうか。 私たちの心はそんなにも重く、そんなにも鈍く、狭く、限定されています。 「どのように」心が見ているかが、それが「何を」見ているかよりもはるかに重要です。 この時間の間、 私たちは質問が何であるか、その質問に対する答えが何であるかとかよりも、 むしろ、どんな風に自分の心が働いているかを学ぼうとしているのです。 「観察者」とは知識の貯蔵所、過去のかたまりです。 彼は、検閲者、蓄積された知識から判断する存在です。 そして、その知識でもっておのれを見ます。 彼は何であれ新鮮な目で見ることができません。 彼はすでに判断してしまいました。 それゆえ彼は自身について新しい何も発見しません。 なぜなら、彼―観察者―は、観察されているものから分離しているからです。 それが、あらゆる関係のなかで私たちが常に行っていることなのです。 私たちの人や物との関係はすべて、 この完全に安全で確実でありたいという欲求に基づいています。 そして私たちは「知ること」のなかにこの安全を求めます。 この知識の保持者が、常に観察対象と分離されたものとしての 「観察者、思考者、経験者、検閲者」なのです。 「気づき」は、心理的蓄積なしに生きることを可能にします。 現在、我々の心は、それ自身の欲望に従って絶え間なく経験を集めているに過ぎません。 まず第一に、私は哲学や聖典を学んできてはいません。 私は自分自身の見出したことをあなたに伝えているのです。 私が哲学や聖典やその他、 そのような著作を勉強してきたかどうかしばしば尋ねられます。 私は勉強してきていません。 私たちが「学習」と呼ぶ蓄積の過程そのもののなかに私たちの不幸があると思います。 知識、学習という重荷を負っているとき、心は損なわれています。 読書すべきでないと言うのではありませんが、 しかし英知は購入されるべきものではありません。 それは行為のなかで発見されなければならないのです。 結論を引き出すとき、あなたはその洞察を打ち切っているのです。 洞察を通して結論を引き出すとき、あなたはその洞察を終わりにしているのです。 結論に基づいて行動するとき、あなたの行動は機械的であることでしょう。 結論をまったく引き出さないで洞察のみであるなら、そのとき行為は非機械的です。 したがってその行為は常に創造的で、常に新しいのです。それは常に生きています。 それゆえ、洞察を持ち、結論を引き出さずに行為する心は、 連続した洞察、絶え間ない洞察の運動のなかにあります。 その、洞察を終わりにしてしまう結論のない絶え間ない洞察は、創造的な行為です。 それは驚くほど美しく興味深いものです。 あなたが洞察を持っているとき、 いかに心が―それは思考ですが―不在であるか分かりますか。 思考は洞察を持てません。 心が思考の構造のなかで機械的に働いていないときのみ、あなたは洞察を持ちます。 洞察を持つとき、思考は結論をその洞察から引き出します。 そして思考が活動し始め、それは機械的です。 結論を引き出すなら、 私は思考の構造である観念、イメージ、象徴に基づいて行動します。 それゆえ私は常に洞察を妨げているのです。 私は昨日それを知ってしまったかもしれません。 しかし昨日のその知識を保持しているかぎり、 今日それが実際は何であるか見ることはできないのです。 それは変化してしまっているかもしれません。 あるいは、今やまったく存在しないのかもしれません。 それで、今日、その本体を見、学ぶためには、 私たちは昨日の結論から自由でなければなりません。 したがって私たちの心は、 その理解しようという欲求において完全に沈黙し、静かでなければなりません。 そのとき私たちは、それを学ぶことができるでしょう。 学ぶことは知識を蓄積することとはまったく違います。 蓄積は「中心」を作り出します。 しかし私が学び、傾聴しているなら、傾聴者はありません。 やってごらんなさい。 完全に注意深く、 外部の雑音に、通りすぎるバスの音に、注意深くしていてご覧なさい。 誰かが咳をしているのに.... そのとき中心があるでしょうか。 注意深くしている観察者があるでしょうか。 ただ注意の状態があるだけなのです。 心は分離なしに観察できるでしょうか。 そこでは観察者は観察されるものなのですが。 知識の重荷なしにあなた自身を見ること。 あなた自身を見、学びの蓄積なしに観察の瞬間に学び、 そのため心がいつも自由に観察できること。 学ぶことができるのは、知識の重荷を背負わされた心ではなく、若々しい心だけです。 そして学ぶことは、 分離なしに、分析なしに、善から悪を、理想像から現実を分け隔てる検閲者なしに 自分自身を観察することを意味します。 これはもっとも重要なことの一つです。 と云うのは、あなたがそのように観察するなら、 すべての葛藤が終わることを発見するでしょうから。 そのなかには全くの「善」があります。 正しく行為できるのはそのような心だけです。 それゆえ、分離なしに、観察されるものに対立する観察者なしに、 獲得された知識なしに観察することができるでしょうか。 と云うのも、観察者は善の敵だからです。 自分自身を観察されるものから切り離す観察者は、良くないものすべての源泉なのです。 観察者であることなしに、 人はいかにして自分自身を知ることができるでしょうか。 「知る」ということはどういう意味でしょう。 私たちは「知る」という言葉をどういう意味で使っているでしょうか。 いつ、私は何かを「知る」のでしょう。 私は言います― 「私はサンスクリットを知っている、私はラテン語を知っている」と。 あるいはまた、こう言うかも知れません― 「私は私の妻、あるいは夫を知っている」と。 私が「私の妻を知っている」と言うとき、 それは私が彼女についてのイメージを持っているということを意味します。 しかし、そのイメージは常に過去のものです。 そのイメージは、私が現在生きている彼女を見るのを妨げます。 なぜなら彼女は既に変わっているかも知れないからです。 ですから、「私は知っている」などと言うことができるでしょうか。 ひとが「観察者なしに自分自身を知ることができるだろうか」と問うとき、 そこで何が起こるのか見て下さい。 私が私自身について学ぶということは、やや複雑なことです。 私自身について学ぶなかで、私は私についての知識を蓄積します。 そしてその知識を使うわけですが、それは既に過去のものです。 私自身について集め、蓄積した知識によって私は自分自身を見つめます。 そして自分自身についての新しい何ものかを学ぼうと努めるのです。 そんなことができますか。 無理です、それは堂々巡りです! 自分自身について学ぶことと、 自分自身についての知識を蓄えることの二つは完全に異なったものです。 学びは絶え間ない非蓄積的な過程です。 「私」は留まることなく変化しています。 そこには何らかの新しい考え、新しい感じ、新しい動き、新しい暗示があります。 学ぶことは、時間―過去や未来―とは何の関係も持っていません。 ですから「私は昨日、学んだ」とか、「私は明日、学ぶつもりだ」などとは 決して言えないのです。 心は絶えず学びの状態になければなりません。 それはいつも生き生きとした現在のなかにあり、 蓄積された昨日の知識によって汚されることなく新鮮でなければなりません。 もしあなたがこれらの事柄のなかに深く分け入るなら、 そこにはただ「学び」だけがあり、知識の獲得がないことを理解なさるでしょう。 そのとき、あなたの心は並外れて鋭敏になり、見ることに鋭くなります。 そして自分自身についてもはや「知っている」とは言わなくなるのです。 そして、どんな人が語る「私は知っている」という言葉も、 それは知らないことの表われに過ぎないということを理解なさるでしょう。 「学び」は不断の活発なプロセスです。 それは「学び終えた事柄」ではありません。 私は学び終えた事柄の更に奥へ進むために、もっと学びます。 私自身について学ぶためには「見ることの自由」がなければなりません。 そしてこの「見ることの自由」は、 昨日の知識に基づいて見ることを否定することなのです。 重要なのは次の点です。 凝視することによって生じた理解・経験を記憶のなかに蓄積することなく、 一瞬一瞬、常に注意深く見つめ続けるということです。 なぜかと言いますと、 あなたが経験を蓄積してしまうや否や、 あなたはその蓄積やパターン、経験に従って見ることになるからです と云うことは、あなたの眼はその蓄積によって条件づけられてしまっており、 そのため、もはや対象を凝視するのではなく、翻訳してるに過ぎなくなるからです。 翻訳することから選択が起こります。 そして選択は葛藤を生みます。 葛藤のなかでは決して理解は生じません。 知識は真理を理解するのに必要でしょうか。 不断の情報の蓄積、様々な知識の獲得、 そのすべてが「私は知っている」という主張を構成しています。 しかし、知識の背後に廻ってそれを英知をもって注意深く見るとき、 「私は知っている」という主張そのものが、 あなたと私を分離させるもう一つの壁になっていることに気づくでしょう。 したがって、心が知識という重荷を担うほど理解することができなくなるのです。 知識は究極的に私たちが愛する助けになるかどうか、 知識はいったい心を野心から解放するかどうか、 ―この問題を今までに考えてみたことがあるでしょうか。 知識を通じて何を得ているでしょうか。 知識の権威、知識の重み、自分が重要だという感覚、 威厳、活力に満ちているという感覚などではないでしょうか。 「私は知っている」「ある」「ない」と言うひとは、 明らかに考えること、この欲望の過程全体を追跡することを止めてしまっています。 心は過去―獲得された信念―から自由でありうるでしょうか。 自分の知識、獲得してきたもの、学んできたものに沿ってあなたは追求します。 明らかにあなたは自分の追求し、求めているものを見出すでしょう。 しかしそれは実在でしょうか。それは自分自身の知識の投影ではないでしょうか。 そう、それは実在ではありません。 今―明日ではなく、いま、そのことを理解し、実感し、 「私はそのことの真理を見ている」と言い、 そして、あなたの心が、この想像の、投影の過程によって損なわれないよう それを手放すことができるでしょうか。 意識的なものも無意識的なものも含め、 あなたを信念にすがりつかせている原因の内面的な性質を理解するときにのみ、 あなたは信念から自由であり得ます。 あなた方はみな信念を持っていますが、みんな仲良くしてるでしょうか。 あなた自身がそうではないことを知っています。 信念は人を結びつけていません。 それが明白であり真実であるなら、そしてあなたがそれを見るなら、 そのとき、それについて行かなければなりません。 しかし困難さは、その内面的な不安、 「孤独である」というその内面的な感覚に直面できないので、 私たちの大部分がそれを見ないということです。 そして、このすべての虚偽を見るとき ―それはほんの一瞬のうちにかもしれませんが― 心はそのことの真理を見ることができます。 そのとき途方もないことが起こるのがわかるでしょう。 平和な人間や真摯な人間は、 自分を孤立化して、しかもなお同胞愛や平和を口にすることはできません。 新しいものが起こり得る状態にいようとするなら、 何かを獲得したり、収集したりすることをきっぱり止めなければなりません。 私たちの多くは非常に浅薄な生を生きています。 そして私たちの貧しい心をたくさんの知識、情報、事実で豊かにしようとします。 しかし、心はそれが知識でいっぱいなら、 それが何らかの形の信念に依存しているなら、 深く調べることができません。 私たちが話しているのは、二つの種類の学ぶことについてです。 一つは蓄積的な学び。 知識や経験の蓄積に基づいて行為をすること。 そしてもう一つは、 蓄積することなく、生きるという行為のなかで常に学んでゆくことです。 一方は技術的なことがらには絶対に必要なものです。 が、関係、人に対する態度は技術的なことではありません。 それらは生きているものなので、それらについては常に学ばなければならないのです。 もし人に対する態度について学び、その知識に基づいて行為をすれば、 それは機械的になり、それゆえ関係は型にはまったものになってしまいます。 それからもうひとつ、きわめて重要なことがあります。 蓄積と経験の学習の場合、それに注ぐ情熱はそこから得られる利益によって決められます。 しかし、利益と蓄積の学習が人間の行動という領域、すなわち心理的な領域に入り込むとき、 それは必然的に破壊をもたらすのです。 利己心に長けることはある面では進歩をもたらしますが、 他の面では不幸や苦悩や混乱の温床となるのです。 どんな種類のものであれ、利己心のあるところには関係が開花することはできません。 関係が経験や記憶の領域内で開花することがないのはそのためです。 既知のものからの自由は、 心の蓄積する過程を理解することによってもたらされます。 なぜ心が過去を蓄積するのかを理解し始めるとき、 それは過去から、蓄積された知識の重荷から解放されてゆくのです。 問題は、何がこの絶え間ない蓄積に駆り立てているかなのです。 いったい何が、自分のなかにこの蓄積したい欲求を作り出しているかなのです。 それで、たくさんの経験を持っており、さまざまな思想書、宗教書を読んできた、 情報、知識を蓄積してきたあなたが、そのすべてを脇にやることができるでしょうか。 自己を知ることが瞑想の始まりです。 瞑想について言わなければならないことは非常にたくさんあります。 そのすべての驚異、そのすべての美は、 心がおのれがなしたすべての発見からそれ自身を空っぽにしたとき、 いかなる動機もなしに、既知のものからまったく自由であるとき.... それは、空虚で、単純で、何によっても占有されることもないが、 寸分の油断もなくとてつもなく注意深い。 それは、どんな個人的な傷も、心理的な傷も記憶に留めることがない。 私たちがあたかも初めてそれに出会っているかのように問題を熟考しましょう。 私たちが決して本を読んだことがないかのようにそれを見ましょう。 たしかに、それが問題を解決する唯一の道です。 どうか気をつけて聞いて欲しい。 なぜなら、これを理解することは非常に大切だからだ。 創造的なのは理解であって、記憶でも想起でもない。 君たちが自分の精神に蓄えてきたものではなく、理解こそが解放させる要因なのだ。 経験と知識が理解にとって代わるとき、それらは人生における退歩の要因になる。 記憶の重荷を負っている限り、何一つ新しいものはない。 信念は腐敗を招く。 なぜなら、信念や理想主義的道徳の奥には「私」「自己」― 絶えず大きく成長し、より強力になっていく自我―が潜んでいるからだ。 蓄積し、集めている人間、より多くを望んでいる人間は、 決して人生を新鮮に経験していない。 既知のものを蓄積しているかぎり、恐怖はなくなりません。 なぜなら、その蓄積自体がそれを失う不安を生みだすからです。 |